「ちょっと、早かったか」
その男は薄暗い濃藍の空の元独りごちる。
愛用の剣を呼び出し、それを地面に突き立てその前に腰を下ろす。
どれ程までに気が昂ぶっているのか。
どれ程までに気が急いているのか。
どれ程までにその時を焦がれているのか。
その時を目前とした今、最後に、この場所で、あの光景を前に、全てを整理したかった。
柳洞寺の境内で、東を向き、その男は一人過去に思いを馳せる。
夜明けのその時まで、改めて考えるには時間は十分に過ぎる。
番外「正義の味方と言う名の英雄の話」
その「彼」にとって幸いだったことが二つある。
一つは、剣にとっての鞘となれたこと。
二つは、彼自らの手で「悪」を殺してしまったこと。
だからこそ彼は考えたのだ。
鞘が堕したなら、鞘が間違えたなら、それは剣をも汚すことになる。
ならば、彼は、「鞘」である彼は、決して過ちを犯し汚れる訳にはいかないのだ、と。
殺す事でしか終わらせられなかった闘いがあった。
既に殺してしまったからこそ、彼はこれ以上過つ訳にはいかなかった。
そのために彼は様々な事を調べた。
数多くの人々の運命を左右してきた古今東西の「王」達、何らかの形で「正義」を体現した者達、「平和」のために生きた人々。
自分の理想を叶えるために、どうすれば良いのか。
過去の事例を漁り、ジャンルを問わず役に立ち得る多くの知識をひたすらに蓄えていった。
知り合いのコネで、彼の理想の根源でもある養父の軌跡も手に入れ、その内容に愕然としたこともある。
そしてそれが、彼の記憶にある、「王」が歩んできた道ともまた似ている物だという事にも気付いた。
だとしても、彼は父親の目指したモノを、父親とは別の道で目指さなければならない。
彼は父親のやり方を認めるわけにはいかなかった。
例えソレがアイツのしてきたことと、同じことなのだとしても彼はソレを認めるわけにはいかない。
そう、いつの頃からか考える様になっていた。
多を救うため少を切り捨てる。
それは確かに一面の真理なのだろう。
どちらかしか救えないのなら、より多い方を救う。
全てを無くしてしまうくらいならば、せめて少しでも多く助かる方を選ぶ。
どこまでも合理的で、どこまでも冷徹な判断だ。
だが、そこで疑問に突き当たってしまった。
「救う」とは何だ?
良く言われる話ではあるが、餓え渇く人間にただ食料と水を与えることはただ一時、死を先伸ばすだけに過ぎない。
真に必要なのは、継続してそれらを生産することが出来る技術、理念をもたらすこと。
ならば、同様にその一時、危機に瀕した人間の命を助ければ、ソレは「救う」ことになるのか?
逆に、今死に瀕す人間に一切の後悔無く死なせてやることも、それもまた救いではないのか?
そう、彼が彼女を救ったのも正にその事例になるのではないのか?
悪を更正させたならそれは救いか?
その悪の犠牲者にとっての救いは?
疑問は果てしなく連なっていく。
「救いを求める人間」とは何だ?
一方的に高次存在として、ただ一時救いをもたらせば良いのか?
違うだろう。
事故で死にそうな人間、戦争にかり出され死にそうな兵士、戦争に巻き込まれる無辜の民、餓え渇く途上国の人々。
誰を優先する?
誰を救う?
誰が救いを求める?
それを判断する俺は何だ?
何故そこまで傲慢になれる?
人が人を「救ってやる」とは何だ?
そう考えた時、彼は父親の間違いに気付く。
何故、殺すことでしか救えなかった。
何故、殺すことでしか救おうとしなかった。
アンタが重火器に、仕掛けに、根回しに、湯水の様に使った、何百、何千万という金が有れば、アンタが殺して来た命も、救ってきた命も優に超えた数の命を救えたはずだ。
命を同価に量り、多少で決めるというのならば、もっと道はあったのではないのか。
たった、百円のワクチンで救えた命があるはずだ。
たった、百円の食料で生きながらえた命があるはずだ。
長らえた分だけ、過酷な環境を生きることの苦痛を味わったかも知れない。
あるいは別の死に方をすることになるだけなのかも知れない。
だが、それでもそれは正しいはずだ。
生きている限り、決して苦痛だけがあるわけではない。
単に友達と野を駆ける時が延びただけでも、両親と過ごす時が僅かばかり長くなっただけでも、それは「幸せの総量」が増えた事になるのではないのか?
生きながらえる事は、経験する苦痛の増加と同義であると同時に、人がその人生で経験する様々な幸せを享受する可能性が増える事と同義に他ならない。
ならば、それは救いになるのではないのか?
そして、そうすれば、アンタはそこまで摩耗しなかったハズだ。
絶望しながらも、奇跡なんてまやかしに縋ることなく、救ってきた笑顔を胸に、ただ「救えた」のだという事実を胸に、歩けたハズだ。
その考えすらも、現実も知らぬ青二才の戯れ言なのかも知れない。
ならば、後はそれが間違いなんかじゃない事を自分で証明すればいい。
そうして、少年は剣を執った。
悪を断つ剣でもなく、魔を断つ剣でもなく、王を選んだ剣でもなく、ただ人を救うための「剣」として。
彼の闘いの人生は此処に始まった。
ある時は悪とされる魔術師を倒した。
ある時は街の片隅で、その腕を振るい、宴を催したこともある。
吸血鬼を相手に、ある街の死都化を防いだ。
時に立ち往生した車のエンジンを直してみせた。
紛争の最中、人々を救うため奔走した。
報酬で仕事を請け負い、その金を多くの人々に還元したりもした。
たまたま立ち寄った街でひったくりを止めた事もあれば、強盗を拿捕したこともある。
数年過ごした頃には異端の投影魔術師として封印指定となり、自身の死を装わねばならなかったが、それでも彼は歩みを止めなかった。
ただ、人々のため、彼は出来る事を全てやり続けていた。
戦うためにひたすらに剣の技術を、魔術を磨いていった。
もちろん純粋に戦うだけではなく、人々の笑顔のため多くの事も彼には出来た。
可能性の全てを、人々のために掛け続けてきた彼だったが、絶望に堕しかけた事もある。
殺さなければならない事も、零れ落としてきたモノも、数え切れない程だった。
そうして、理想と現実の狭間で、道を見失い掛けた頃。
いつしか、彼の王が折ってしまった様に、黄金の剣を投影する事すら出来なくなった頃。
彼にとって転機となる闘いがあった。
それは死徒との闘いだった。
数多の眷属を従えた死徒を相手に彼はひたすらに剣を振るい、生み続け、力尽きた。
迷いを抱えたまま、絶望に染まりかけたまま、彼は死に瀕し、地に倒れ伏した。
そんな時に、その死徒は告げたのだ。
恐らくは単なる疑問だったのだろう。
その頃の彼は、その筋で存在を知らぬ者が居ない程、そうあの蒼の死神や魔法使い達と同じ程の異端の、狂った存在として認知されていた。
だから、問うたのだろう。
悠久の時を生きる死徒にとって、理解できない存在とは限りない娯楽でもあるのだ。
「何故お前は生きて居られる?そんな濁りきった瞳で、そんな狂った行動原理で、何故、死を選ばずに歩き続けられる?」
誰かのために生きる、それが全てだった。
それが全てで良いと思っていた。
だから、どれ程までに「自分」が朽ち果てようと、生きていられた。
そう、その生涯に意味など無い。
ただ、他がために生きるが故に、この絶望の道も歩いてこられたのだ。
――本当にそうか?
そう結論づけて、内なる声に否定された。
――お前は何だった?
なお声は問う。
自身の存在とは何だったかと、声が問う。
だが、考える余裕など最早彼には残されていなかった。
負った傷はあまりに深く、止めどなく流れ出す血は、既に致死量に迫り、意識は闇に落ちかけていた。
そうして、脳裏に浮かぶ走馬燈に、その姿を見た。
そこには椅子があった。
その既視感。
アレはいつの事だったか。
誰を前に、誰を思い、何をしたのか。
――思い出せない訳が無いだろう。
ああ、そうだった。
そこに座っているのは誰だったか。
俺は「彼女」の何だったか。
俺は「彼女」に何が出来たのか。
俺は「彼女」を前に何と言ったのか。
――ならば、この生涯は虚無ではない。
だからこそ、「その剣」を執った。
だからこそ、この道を歩んで来れた。
だからこそ、俺は今こうして立ち上がっているのだ。
「……体は剣で出来ている」
傷は癒えていく。
ようやく見つけたのだ。
答えは、その証と共に、ずっとこの胸の内にあったのだ。
誇りを胸に、希望を胸に、絶望も迷いも全てを共に抱え、それでも、紡がれた凱歌は世界を塗りかえた。
そして、かつて少年だった青年は、英雄への道を歩み始めた。
夜が明けた。
静かに朝焼けが大地を包んでいく。
暖かな陽光を受け、鈍色の剣は黄金に染まる。
「これが、最後になる。かつての主を斬りつける事になるのは酷だと思うけど、よろしく頼むよ」
朝焼けの中、かりそめにかつての姿を取り戻した相棒に語りかける。
その選択を決めたのは何時だっただろうか。
「彼女」と知った時か。
ランサーと戦った時か。
佐々木小次郎と戦った時か。
再び彼女と出会った時か。
この戦争に呼び出された時か。
恐らくはもっとずっとずっと前。
きっと、全ての始まりは、この剣を手に執ると決めた時。
彼女と同じ剣を目指すと決めたその時から、ずっとその思いはこの内にあったのだろう。
ただ、それに気付いたのが、明確な形になったのが、この戦争を通してだったと言うだけの話。
さぁ、挑もう。
その全てを賭けて、ただ一つの、「自分自身」の望みのために。
最初で最後の私闘に。
剣と鞘の有り得ない闘いに。